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惜別 谷田義久先生

Posted on 2022.4.26 Last Update 2022.5.12 Author Organizer Tag アーキリード

建築は形ではない

吉田研介

「建築は形ではない、理念だ!」 
私が東海大学の先生になって、研究室の扉に貼った言葉です。
これは磯崎新の思想を表わす言葉です。その頃私は、丹下健三から磯崎新に関心が移ってきて、かなりかぶれていたので、私なりに翻訳した磯崎新の思想です。

早速 顰蹙(ひんしゅく)を買いましたね。全員の先生から。
その先頭が谷田義久先生でした。

谷田先生は、早稲田の先輩でした。しかも正系中の正系、今井兼次教授の研究室の出身です。今井先生は、ご存知、長崎の「26聖人記念聖堂」の設計者、理屈抜きの心からの美を求められた先生です。強いていえば、「ヒューマニティと美」を生涯求められた先生でした。
その先生に心酔した、生粋の美の伝道師としての建築家・谷田義久先生は東海大学建築学科の美の柱と言ってもいいかもしれません。
そんな谷田先生の前に現れた新人のチンピラに「建築は美ではない」なんて言われたら、収まるはずはありません。でもまともにお叱りを受けたことは無かったように思います。

谷田先生は酒がお好きで、奈須曼先生と稲葉和也先生とよく飲みに行きました。
酔いが回って来ると、いつも議論になります。そういうところでよく怒鳴られました。
谷田先生は、気性はストレートな方だから、次第に興奮し激昂なさいます。そして挑みかかるように、激しくなります。ある時は涙を流しながら「建築は美だ!!」と。
奈須先生は、学生時代直接教わった師ですから、ハイハイと聞くばかりです。
稲葉先生はすべてを捨てても親愛と平和を愛する方だから、議論など関係なく「まあまあ」と鎮め役に徹します。私がひとり立ち向かう役です。

ある時、あんなに激昂しながら飲んでもうまくないし、あんなに激しく挑まれても楽しくないから、3人で飲もうと出かけたら、どこで察知されたのか、気が付いたら4人になっていました。激昂型気性の半面、人懐っこいところがある方でした。

天国にいらっしゃる谷田先生! もうすぐ行きますからね・・と云いたいけれど、私が行くところは地獄だから、たまには遊びにいらっしゃい。
一緒に飲みましょ。 
合掌


谷田義久先生を偲んで

名誉教授 椎名國雄

2021年10月6日久しぶりに湘南校舎へ定期健康診断受診のため訪れました。その折り山崎俊裕先生から、谷田義久先生が去る6月15日にお亡くなりになったと告げられました。88歳だったこと、今年頂いた年賀状に小さな書き込みがあったことが頭を過りました。書き込みは、昨年11月7日に足を骨折し現在も治療入院中です、と認められていました。入院中のことは気にはなっていたのですが、そのままになってしまい悔いが残りました。幸い追悼文を書く機会を東海大学建築会が与えて下さったので、拙文ですが谷田先生との想い出を記してみたいと思います。

私は1967年4月1日に東海大学建築学科の教員として採用されました。吉田研介先生とは同期の採用でした。私の専門は建築材料および建築材料実験でしたが学生に接してみて、東海大学は設計製図にとても力を入れている大学だと感じました。当時、設計製図をご担当の専任教員は高瀬本居先生、久保田庄三郎先生、川添智利先生、谷田義久先生、矢ノ上滋郎先生、青木康男先生、奈須曼先生、石田勝彦先生、末吉裕子先生、田丸重彦先生、川船毅先生でした。山田守先生は前年の6月にお亡くなりになったのですが、山田先生の建築家としての思想が設計製図の授業の色濃く残っているように思いました。   

私が東海大学の教員になって日の浅い頃、谷田先生は私にこんなことを話されました。
椎名さんは千葉大学建築学科の卒業だそうですね。実は私も千葉大学機械工学科の学生だったことがありました。1951年4月に入学してしばらく通いましたが建築家になりたい思いが募り、2年後に退学して早稲田大学建築学科に入学しました。早稲田大学では学部生、大学院生、その後の研究生も含めて教授で建築家の今井兼次先生の研究室に所属していました。当時、今井先生は桃華楽堂(1960年竣工、皇居東苑)や日本26聖人殉教記念館(1962年開館、長崎)を設計なさっていましたので研究室員として設計協力をさせて頂きました。その後1964年4月1日から東海大学建築学科の教員として勤務することになりました。
このようなお話があったので谷田先生とは、専門分野は異なりましたが気を遣わずに声をお掛けすることが出来るようになりました。

東海大学の教員になって4年経った1971年4月、それは全国的な学生紛争が終わったほぼ半年後でしたが、谷田先生から椎名さんちょっとお願いがあるのだけれど、と話し掛けられました。お話は1971年から発足する建設大臣指定講習テキストの分担執筆で、受講者が「建築設備検査資格者」になるためのものでした。

「建築設備検査資格者」は、現在の「建築設備検査員」です。
「建築設備検査資格者」は、定期的に建築設備(換気設備、排煙設備、非常用照明設備、給水設備及び排水設備)の安全確保のための検査を行い、その結果を特定行政庁へ報告するために制定された資格者です。この定期検査報告は、一級建築士または二級建築士であれば「建築設備検査資格者」でなくても行えます。しかし建築士以外の人が「建築設備検査資格者」になるためには、建築設備に関する一定の実務年数(大学、短大、高専、工業高校などで建築学科、設備工学科、電気工学科、機械工学科を卒業している場合は年数が短縮される)を有し、建設大臣(現在は国土交通大臣)の登録を受けた機関が実施する建築設備検査資格者講習(当時は5日間)を受講し、修了考査に合格することが必要でした。

建築設備検査資格者講習テキストは1編~11編で構成されており、3編が建築学概論でした。ところが3編の執筆をして下さる先生がなかなか居られなくて、最後に早稲田大学教授の池原義郎先生がお引き受けになられたのだそうです。

池原先生は先ず同じ今井研究室のご出身である谷田先生と執筆についてご相談になりました。その結果、3編1章の建築計画総論と3編2章の生活空間と環境技術を池原先生、3編3章の建築計画各論を谷田先生が執筆されることになりました。その際、3編4章以降については、谷田先生が東海大学に持ち帰って人選を考えることになったのだそうです。谷田先生はお考えで3編4章の建築材料を私(椎名國雄)に、3編5章の建築構造を石川廣三先生に、3編6章の建築施工を大手ゼネコンの技術研究所の人に執筆をお願いすることになりました。その後になって建築基準法の耐震設計についての改正があったことから、1982年版以降は3編4章の4.2躯体の構造に(1)基本的事項の節を設け、本学の永坂具也先生がこの節の執筆者になりました。

初版(1971年)の原稿の締め切りは6月5日でしたので2ヶ月程しかなく、とても厳しい期限だったと記憶しています。しかし今思えば、谷田先生はご自身で執筆されただけでなく、東海大学の当時の若手の教員に大変名誉な仕事を与えて下さったのだと感謝しています。私は1996年の講習テキスト新装版発行まで関係しました。後に谷田先生は3編について東海大学の羽生修二先生、さらに山崎俊裕先生へと引き継がれたと聞いています。そのようなことから建築設備検査資格者講習テキスト3編建築概論の執筆は、谷田先生の余り知られていない貴重なご業績であると思っています。    

東海大学は過去2回、1979年と2015年に湘南校舎で日本建築学会大会を開催しました。初回の1979年は、建築学科の設計の先生方が基本設計をされた6号館教室棟が建築されて間もない頃でした。6号館は建築分野別の研究発表会場として主に使用されました。この時の建築学会大会ポスターの図案は、谷田先生が作成されたものでした。ポスターは湘南校舎校舎1号館とその前の噴水のある池の写真をモチーフにし、薄紫色に仕上げられていました。このポスターは全国の建築学科のある大学、大手ゼネコンの技術研究所に送付されたので東海大学を知ってもらう絶好の媒体となりました。建築学会大会には谷田先生の先生である今井兼次先生もお見えになり、湘南キャンパスをスケッチされて居られました。

谷田先生は後年、本学建築学科の副主任を4年間務められるなど、本学建築学科の発展に多大なご貢献をなさいました。そしてご定年(1999年3月31日)と同時に名誉教授になられました。その後の谷田先生とは主に年賀状でのご交誼となりましたが、先生は建物を巧みにスケッチされて年賀状に使われることが多く、それを拝見するのはとても楽しみでした。そのうちの数枚をお目にかけたいと思います。

谷田先生は大学院生時代から建築家アントニオ・ガウディの研究(日本建築学会論文報告集、第66号・昭和35年10月、今井兼次、〇池原義郎、谷田義久共著)をなさっていました。ガウディの建築の代表作に、ガウディが生涯の全精力を傾けた未完成・聖家族聖堂(サクラダファミリァ)があります。谷田先生は広い意味での建築に関わる創作活動を、ガウディのように生涯に亘ってなさろうとされていた、と私は思っています。そのような谷田先生に私は心からの敬意を表します。

谷田先生,長い間のご指導ご鞭撻誠に有難うございました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


谷田義久先生との思い出

1966年工学修士 菅野宗武

谷田先生が東海大学建築学科に着任されたのは、私達が大学院に入った1964年でした。

谷田先生にお会いした当時の印象で強く残っているのは、早稲田大学で今井兼次先生の建築の手法に直に触れ、長崎二十六聖人記念館をはじめ、いくつかの設計から現場監理までを経験しながら、自らの建築設計の基本的な態度や理念を今井先生との師弟関係の中で取得していったということを非常に大事にされていたことです。

しかし、その後の社会の動きの早さ、経済発展に応える建築教育の速成傾向、ルーティンワーク化については、建築教育の再考の必要性を訴える言葉を残されております。

谷田研究室卒業生との会合には体力の許す限り出席なされ、逆に欠席している卒業生には一人一人その安否を気づかっておられた様子が目に残っております。


上:1981,1982の卒業アルバムより
(アルバム提供:椎名先生)

左・下 写真提供:大藪孝治氏・鈴木裕一氏


谷田義久先生 2021年6月15日ご逝去

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